ゆとりある生活をこの手に

好きなものを好きというだけ

ドラマ『僕たちがやりました』が含むメッセージについての考察。

お疲れ様です、ゆとりです。

 

 

先ほどドラマ『僕たちがやりました』の最終話を視聴した。

(放送日からのタイムラグをお許しください。)

 

※今回の記事はネタバレを含みます※

 

知らない人のためにあらすじを。

 

凡下高校生徒の2年生・トビオたちはOBで金持ちのパイセンとつるみ、遊んで過ごしてきたが、ある時仲間のマルが、凡下高校の隣にある矢波高校の生徒らに拉致され大怪我を負わされてしまう。矢波高校の生徒に仕返しするためにトビオ達は夜間に矢波高校に忍び込み、小規模な爆弾を仕掛けた。しかし、最後にボタンを押したところ、想定外の規模の爆発が発生して大勢の死傷者が出てしまった。 トビオはパイセンらと外国へ逃亡しようとするが、パイセンは空港で刑事に逮捕されてしまう。 そしてトビオらはバラバラになり、警察や、大怪我を負いつつ生き残った矢波高校をシメていた2年生・市橋から逃げることになる。

 

ドラマ公式サイトはこちら→

www.ktv.jp

 

 

火曜夜9時というゴールデンタイムでの放送だったにも関わらず、リンチ・濡れ場・レイプ未遂のシーンなどがありのままに放送され話題になったので知っている方も多いのではないだろうか。

 

まず、なぜこのドラマを視聴しようかと思ったかというと、間宮祥太朗が出演していたからである。ファンなのだ。ただそれだけ。

そんなわたしも序盤は「なんてくだらないドラマだ」(失礼)と思っていたし、ぶっちゃけ真剣には見ていなかった。⁽もちろん間宮氏のシーンはちゃんとみた。⁾

 

このドラマの赴きが変わりだしたのは第六話から第七話にかけて。六話では爆破事件の真犯人を名乗る男の出頭によって半ば強制的に事件は幕を閉じ、トビオたちは日常を取り戻したかのように見える。しかし、七話で刑事の飯室(三浦翔平)から事件の真犯人はトビオたちであるという真相を告げられる。

 

このあたりから、トビオの中で静かにでも確実に罪の意識、罪悪感が大きくなっていく。

 

ストーリーが終盤に向かう中で、罪悪感を抱えきれなくなったトビオたちは自白を試みる。

 

僕たちがやりました。捕まえてください。」

 

 

 

結論から言うと、トビオたちは逮捕される。

 

最終話の残り15分ほどだろうか。

 

このドラマはここからがすごかった。

 

 

10年後、4人は罪を償いパイセンの呼びかけで再集結を果たし、それぞれがそれぞれの道を歩いていることがお互いに分かる。

ここでのトビオとパイセンの会話が印象的だった。

お笑い芸人になろうと思うと夢を語るパイセンに、人を殺したのに何故夢を語ることができるのか、と問うトビオ。パイセンは答える。

「最後に残ったのが 笑い だった。お前の最後に残ったものはなんや。」

トビオの答えは、「たまに死にたくなる自分」だった。

 

トビオたちは罪を償ったはずなのに、罪から解放されたわけではなかった。

 

 

 

最終回を見ているとき、わたしは一冊の本を思い出した。

中村文則先生の著書『悪と仮面のルール』

(わたしは中村文則先生の大ファンなのだ)

 

この本の一節に、「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問に対して、「人間は、その先も生きていかなければならないから」だと答える部分がある。

 

 

まさに『僕たちがやりました』のトビオはこれだ、と思った。

 

 

ドラマが、このメッセージを含んでいたとするなら、今を時めく俳優陣をそろえ火曜の9時という時間にわざわざ放送する意味も、あらゆる衝撃的なシーンで話題性を欠かなかったことも、より多くの視聴者を獲得するための戦略だったのではないかと思った。

(昨今のドラマは視聴率が悪ければ即打ち切りをされてしまうため話題性はドラマを生き残らせるために欠かせない)

 

 

 

ここに書いたのはあくまで個人的な考察に他ならないので、さらっと目を通していただけるだけで幸いです。

 

ただ制作側の意図がどこまで視聴者に届いているのか、その意図自体も含めてとても気になる...

 

 

 

序盤からのふり幅をみても、なかなか面白い作品だったと思う。

 

 

 

 

yutori.