ゆとりある生活をこの手に

好きなものを好きというだけ

峯田和伸 民放ドラマ出演に際して総ての同志に贈る

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お疲れ様です、ゆとりです。

 

我々の峯田和伸の、民放ドラマの出演が発表された。

日本テレビ系の7月期新水曜ドラマ『高嶺の花』で峯田が演じるのは、石原さとみ演じる‘高嶺の花’の女性の前に偶然現れる平凡な自転車店主。

峯田本人も今回の抜擢を受けとても喜んでいるようだし、なかなかおもしろい内容になりそうで私自身もとても楽しみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

とでも言うと思ったか。

我々の峯田和伸石原さとみと運命の恋になんか落ちるかよ。

といった感じなわけだ。

以前にもここで何度か話しているが、私にとって峯田とはこれまでの人生を(特に高校時代を)語るうえで欠かせない存在なのだが、というのも彼があの頃の私を根底から支えてくれた人であり、あれはもうもはや恋だったとさえ思っているからだ。

峯田と出会った頃の私は、一番荒んでいたときで、もう誰も信用しやしないし、誰も自分のことを分かってくれないと思っていた時だった。そんなときだったから、彼の言葉が胸に刺さったし、支えになった。

 

「寂しいとき、辛いとき、夜枕元に僕たちの曲が流れていると嬉しい。その代わり、君たちが幸せになったとき、こんな曲忘れちまってくれ。」

 

峯田が言ったとおり、あの頃に比べて彼らの音楽を聴く機会は減った。私は決して後ろめたくなんかなければ、寂しくもない。彼らの音楽からいつの間にか旅立ち、新しい何かを見つけたってことだと思っている。

ただ、心から感謝している。あの頃もし峯田がいなかったら、絶対に今の私はいなかった。だから今でも彼のことが大好きだ。

 

現在も峯田という人は紛れもなく、高校生の頃の私のような人にとっては特別な存在だと思う。

あの頃の私のような人が、めぐりめぐってようやく見つけた居場所であり続けているはずだった。

峯田の多方面での活躍は私にとってうれしいものに変わりはないが、それでも私は彼にはずっと日陰の主であってほしかったと思ってしまう。

 

私は当時、峯田が好きってことを誰にも話したことはなかった。音楽の話をする数少ない友人にもだ。それくらい彼は私の中で特別だった。私だけが知っていればよかった。周りの誰にも知られたくなかった。秘密基地みたいなものだった。

 

クラスのなかでの「昨日のドラマ観た?風間(峯田の役名)かっこよかったよねー!」なんて会話、願い下げだ。翌日のクラスの会話に出現しないでほしい、と思ってしまう。

 

こんなのは私のエゴに過ぎないのかもしれないが、少なくとも私はどうしてもそういう感情になってしまった。

 

そして同じように思っている人が他にもいると信じたい。(お願い、いて。)

 

 

これから、どんな形であれ、新しく峯田と出会い、彼に魅了されるであろう人達もみんなまとめて同志と呼ぼう。

そしてこれからも峯田和伸は私にとって特別な存在であることに変わりない。

 

 

 

yutori.

怒髪天の「ホトトギス」は恋の歌だ。

 

 

 

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中学2年生のわたしが乗った、閉まりかけのエレベーターに飛び込んできたのはあなたでした。私より先に降りたあなたは、外からエレベーターのドアを押さえわたしが降りるまで待っていた。それはまだわたしたちがお互いを認識する前の話。

名前も知らない人を好きになることができるのだということを、あなたはわたしに教えてくれました。

 

 

 

 

鳴かぬなら 俺は自分で鳴く

高らかに空を仰ぎ 響け俺の唄 ホトトギス

 

ゆとりちゃんはどれだと思う?鳴かぬなら?」

 

「わたしは、鳴くまで待とう...かな」

 

「先生は...、鳴かぬなら いいよいいよ先生が鳴くから、って思う」

 

 

それは、怒髪天 初心者のわたしが手にしたアルバム『結成30周年アニバーサリーイヤー記念ベスト盤 問答無用セレクション‘金賞’Special edition』の2曲目「ホトトギス」を聴いたわたしの脳裏に鮮明に蘇る記憶。

そしてその瞬間この歌は紛れもないわたしの「恋の歌」になった。

その時は、相変わらず面白いこと言うなぁ、って思っただけだったけれど、それはもしかしたらわたしよりも何年か長く生きた彼の人生の話だったのかもしれない。

 

力こそがすべてと奪い取ったところで残る後味の悪さとか、

あの手この手の策に溺れる策士の惨めさとか、

腰を据えて待っては見たものの気付けば終わる人生の短さとか、

もしかしたらそういうことの経験からの言葉だったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もう今となっては確認する術はない。

 

8年のときを越えて、あの頃の自分に再会したわたしは、まだまだ捨てきれないあの人への憧れを思い出させた怒髪天を決して許さないし、同時に、自分の男を見る目を信用したのだった。

 

初めて聴いた怒髪天がいきなりわたしの痛いピンポイントを押さえてきたので、これからの怒髪天との付き合い方はもう少しよく考えてみることにしよう。(怒髪天がまさか恋の歌になるなんて思ってもみなかった。)

 

 

 

 

yutori.

 

 

8年来の和牛好きがM-1GP2017を好き勝手に語る。

 

お疲れ様です、ゆとりです。

 

※今回は相当好き勝手なことを言っています。※

 

大会全体を通して、(特に大好きな和牛について)言いたいことを誰に当てているわけでもなく独り言のように書きました。否定的な意見が多いです。和牛ファンの方は読まないことをオススメします。各位、自己責任でお願いします。

 

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M-1GP2017、すべての芸人さんに。

 

お疲れ様です。

 

今年も当日は敗者復活戦から観させていただきました!

 

わたし個人としては敗者復活戦が配信でしか観られなかった頃のことが懐かしいです…

 

敗者復活戦、視聴者が3組に投票できるということで、贔屓目にみて(笑)

アインシュタイン

相席スタート

スーパーマラドーナ

に投票いたしました。

 

個人的な話ですが、今年はアインシュタインを決勝のステージに立たせてあげたい(偉そう)気持ちが強く、最後敗者復活枠が決まる瞬間までドキドキさせていただきました。

 

来年こそは!

 

また、本戦も優勝予想3連単というおもしろい企画も合わせて行われており、優勝予想1位が安定の和牛というおもしろい展開でした。

 

 

わたしが和牛に出会ったのは中学生の頃で、当時はファンの間でbase麺と呼ばれる大阪の若手お笑い芸人とage麺と呼ばれる東京の若手お笑い芸人がいた時代で、その頃のわたしはもっぱらbase派の人間でした。

 

参考までにその頃のbaseはジャルジャル・スマイル・モンスターエンジン等、ageageはピース・ノブコブLLR・ブロードキャスト等でした。

 

ここまでで分かる人には分かると思います。

 

 

そう、去年のM-1GP2016。

本戦にはアキナ・スーパーマラドーナ銀シャリ、そして敗者復活枠は和牛といった、大変胸が熱くなるメンバーでした。

 

特に敗者復活枠の出場者が発表される瞬間の緊張感と、和牛の名が呼ばれた瞬間の歓喜。思わず家で万歳しながら涙したことを覚えています。

 

圧巻の勢いでファイナルステージに勝ち進んだ和牛。

 

その脇を固めるスーパーマラドーナ銀シャリ

 

感無量、とはまさにこのこと。

 

このメンバーがM-1GPという歴史ある大会で戦っているということが、どれほど待ち望んだ光景なのか、おそらく同じように感極まっていた方はわたしだけではないはずです。

 

そのなかで優勝したのは銀シャリでした。(もちろんすごく嬉しかった!)

 

 

 

最高のシチュエーションで、展開で、それでも優勝できなかった和牛。

 

だけど、それでもわたしは嬉しくて、だっておもしろかったから。感動したから。

 

 優勝はできなくても、多くの人が和牛おもしろかった!と言ってくれていたことが、すごく嬉しかった。

 

 

1年後、M-1GP2017の優勝予想1位は和牛でした。

 

これはみんなが今年は和牛が優勝するだろうと思っていた証です。

 

でも、ごめんなさい。

わたしはそうは思っていなくて、ぶっちゃけ去年以上に"和牛のための"展開はもうないと思っていたんです。去年の優勝と今年の優勝は違うんです。

 

 

去年は優勝できなかったけど、別に今年もう優勝しなくてもいいんじゃないかなって少し思ってしまっていたんです。

 

だって優勝するなら去年だから。去年しなきゃいけなかったのにできなかったんだから。

 

 

ハングリー精神と覇気は去年の方があった気がした。少なくともわたしはそう感じてしまいました。

 

 

 

ネット上には「和牛が優勝だと思った」 という意見が多すぎて、本当にそう思ってる?とどうしても疑わずにはいられなかったです。

 

和牛が超えなくてはいけないのは、2016年の和牛だった気がしました。

 

「ラストイヤーだから同情票が入った」「去年と同じ審査員だったら和牛が優勝だった」「漫才で評価してほしい」などと言っている自称和牛ファンの人たちが、大会終了後のSNS上にたくさんいた気がします。

 

 

本人たちがいちばん分かっていることだと思うのですが、大会を迎えるまでの環境が去年と今年では大いに違っていたはずです。

 

正直、去年の方がおもしろかったです。

 

もちろん、感じ方は人それぞれですから、本当に今年の優勝が和牛だと思った人がたくさんいることも分かります。

 

 

 大会全体を通しても、なんとなく静かめな印象を受けました。

 

ステージ上で"自分たちらしさ"を存分に発揮したマヂカルラブリージャルジャル、結果はどうあれ眩しかったです。

 

野田くんみれたのかなり嬉しかった 笑

 

 

 

 

最後になりましたが、とろサーモン優勝おめでとうございます。

 

タイムマシーン3号・磁石が優勝する姿がみたかった…という気持ちが大きくなった今年のM-1GPでした。

 

 

 

 

 

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yutori.

 

私と峯田と青い春、について。

お疲れ様です、ゆとりです。

 

お久しぶりです。学校の課題・体調不良等々でかなり更新が滞ってしまいました。

 

書きたいことはたくさんあるのだけど。

 

 

 

さて、covers、スッキリ、LoveMusicと怒涛の銀杏Boyz地上波出演ウィークがあったわけだけども、総じて言えることは「峯田が好き」だ。

 

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まずcoversで、愛燦燦をカバーしている峯田をたまたま父親が観ていたのだが、後日峯田が歌うライフルのCMが流れたとき、「あれ?これこの前の愛燦燦の人の声?」と言ったことに驚いた。

 

 

スッキリは学校だったのでリアルタイムで観れていなかったのだが、録画したものを帰って来てからみた。

 

「この世の中に、この世の中にある、悲しい事件や争い事や戦争が無くなってほしいと僕は本気で祈っています。本気で祈っています。ラブソングには、恋の歌には、その力があると僕は思っています。日本の皆さん、おはようございます!」

 

曲の中盤で峯田は叫んだ。

 

スッキリという朝の情報番組で彼が言いたかったこと。彼が音楽を通して、一貫して伝えたいこと。願い。

 

こういうことを許してくれるスッキリという番組、そしてなによりMC加藤浩次の存在の安心感(生放送で銀杏Boyzがなにかやらかしてもなんとかしてくれそうだな、と勝手に思っていた 笑)。

 

曲の終わり、森アナウンサーの涙が全てのファンの心情を物語っていたように思う。

 

 

そして、LoveMusic

 

このLoveMusicを観ていたとき私は母に「なに?この人好きなの?」と聞かれた。

 

 

 

私は高校生の時からずっと峯田が好きだったが、唯一このことだけは他言したことがなかった。

 

 

峯田の切り抜きを生徒手帳に挟んでいたけど、誰にも知られたくなかった。

 

 

(高校時代のお話は少し前記事で書いています。22歳女子大生が過去の自分に言う。 - ゆとりある生活をこの手に)

 

 

 

 

音楽には、いろいろな種類があってそれぞれの役割がある、と私は思っている。

 

そのなかでも、日向の音楽日陰の音楽というのは確かに存在すると思う、いや、むしろするべきだ。

 

 

売れるということはつまりそれだけ多くの人が知っているし共感を覚える人も増えるということ。

 

私もこの音楽をいいなと思うし、もしかしたら隣の知らない人もこの音楽をいいなと思っているかもしれない。

 

分母が増えれば必然的に分子も増える可能性がより多くなるということだし、分子が増えるということがその音楽を日向たらしめる要素になる。

 

 

 

 

高校生のとき銀杏Boyzをこっそり聴いていた私は、決して明るい人間ではなかった。そんな私を救ってくれた音楽を、クラスのボスみたいな子が「いいよね〜」なんて言い出した日にゃもう私はどうすればいいんだ!

 

べつに、好きじゃいけない、というけではなくて、それをあえていう必要がない、ということだ。

 

内に秘めてこそ輝く、ということもあるのではないかということだ。

 

この細かいニュアンスの違いが上手く伝わるか…

 

 

 

銀杏Boyzはずっとわたしの中でそんな存在だった。だからあえて他言しなかったし、するべきではないと思っていた。

 

一連のブーム(?)で銀杏Boyzが地上波のテレビに出演することを、よく思わないキッズたちが多くいるだろうと思う。

 

そんな感情すんばらしいな!

 

でもそんなことで銀杏Boyzを手放すのは惜しくないか?悔しくないか?

 

なんなら君達の代表として想いを訴え、ぶつけてくれているのだから!

 

銀杏Boyzは決して君達を見捨てはしないし、裏切ることもしないだろう。峯田和伸とはそういう男なはずじゃないか。

 

 

coversで峯田は、もし自分の子供ができたら、って話をしていて、びっくりしたけど、それでもやっぱり彼は彼らしくこれからも音楽をつくっていくのだと思う。

 

今の銀杏Boyz昔の銀杏Boyzもどちらのことも知ってほしいしあわよくば愛してほしい。

 

音楽は変わるものだけど峯田の根底にある想いは、駆け抜けて性春 のときからなんも変わってない。

 

駆け抜けて性春/銀杏BOYZ - YouTube

 

音楽以外の場面でも彼の魅力に取り憑かれる人が多くいることを今は願っている。

 

 

 

 

 

 

yutori.

 

キングオブコント2017についてもろもろのハナシ。

お疲れ様です、ゆとりです。

 

 

2017年10月1日、コントキングがかまいたちに決まった。

 

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おめでとう、かまいたち

 

 

ファイナリストが発表された段階で

かまいたち

アキナ

GAG少年楽団

は個人的にかなり胸熱だった。

 

 

今回のキングオブコント2017の話をするにあたって、どうしても昨年大会を振り替えざるを得ないのだが、かまいたちは昨年もファイナル出場を果たし、1本目のネタもかなり面白いものだったと感じたのだが、ファーストステージで圧倒的なチカラを見せ付けたのがジャングルポケットだった気がする。

 

 

今大会、個人的にはジャングルポケットの1本目のネタは設定がめちゃくちゃおもしろくて、昨年のトイレのネタと同じくらい、いや、それ以上おもしろいかも?とも思った。

 

ただ正直、2本目はもうかまいたちだった。

 

ボケとツッコミが入れ替わることで短時間の間で2本のネタをみせるのに、既視感のないコントになった。

 

(わたしは1本目の時点で、もうかまいたち優勝ね、と言って寝た。)

 

 

 

GAG少年楽団は残念な結果だったがあの場所で3人のコントが見られたことがなにより最高だった、と思ってる人は少なくないはずだ。

 

先述したわたしの推しの3組は、わたしが中学生の頃から応援していたメンバーだ。

 

いわゆるbaseメンバー

 

アキナのコントはわたしはすごくおもしろかったけど、設楽さん、松本さんのコメントがまさにその通り、と言う感じだった。

 

ただ、アキナに関しては昨年のM-1GPのことがあるので、彼らのコントがこれで終わるはずがないし、必ず期待を超えてくるだろうと思う。

 

(昨年のM-1GPについてもそのうち必ずお話ししたい。)

 

 

 

これを機にかまいたちは東京進出をするのだろうか…?

 

京進出=全国区

というわけだし、関西ローカルで活躍するより圧倒的にたくさんの人に見てもらえる機会が増える。

 

ただ関西と東京とは全くの別の世界だと思うし、わたしは関西でそのまんまのかまいたちで活躍している姿をみていたい。

 

もちろん東京進出してくれたらわたし自身がかまいたちを目にする機会も増えて嬉しいが。

 

 

 

今回の大会を機にかまいたちを知った方は、漫才もサイコーにおもしろいので是非みて欲しい。

 

 

内容の薄いブログで申し訳ないです、

 

とにかく、かまいたちおめでとう!!!!!

 

 

 

 

 

yutori.

女子校出身者が思う共学出身女子の偉大さについて。

お疲れ様です、ゆとりです。

 

 

 

実は中学・高校と女子校出身なわたしなわけですが、大学(共学)に入って女子校出身なんだと言うとほぼ80%ほどの確率で言われるのが「え〜女子校って怖そ〜」である。

 

これを言ってくるのは99%共学出身の女子。

 

おそらくここでの“怖い”とは大半が陰湿ないじめ等を指すのだろう。

 

いや、イメージというのはたしかに大事だし、大きな影響力があるのはわかる。それに、女子校=怖い というイメージがあることはおそらく本人たちも自覚している。(なぜならわたし自身が入学当初不安だったからだ)

 

 

ここからは本当に学校の特性によると思うのだが、あくまでわたしが感じたことを綴らせていただきたい。

 

まず、「え〜女子校って怖そ〜」に対してのガチレスは、

「いや、怖い女は怖いし、怖くない女は怖くないよ」

である。

 

それは環境に左右されるというよりはもうその人個人の人間性の問題なので、簡単にいうといじめっ子はどんな環境でもそうなり得る可能性はあるし、そうならない子はどんな環境でもならないということだ。

 

わたしの学校でも、実際になかったとは言えないかもしれない。が、意外とサバサバした女子が多いのも特徴だ。

 

陰湿な嫌がらせやいじめを行う気配のある子のことをある程度の数の学生は見抜くし、それとなくあの子ってそういう子だからね、気にしない方がいいよーみたいな感じがあるのも事実だ。

 

むしろ、同じ性別しかいないのでびっくりするぐらい開放的で品性を欠いてしまう方が問題視すべきだとわたしは思うのだが…

 

 

 

 

さて、本題はここからである。

 

先述している共学出身女子の「え〜女子校って怖そ〜」発言には、実は女子校出身者に対する一種の権勢攻撃が含まれている場合がないとは言えない。

 

女子校のようなドロドロとした環境で育ってきた女、というレッテルを貼られている気がしてしまう。

 

なぜこういうことをするかというと、簡単な話マウンティングだ。

 

ドロドロした環境で育ってきた計算高く少し荒んだ女子校出身者に対して自分は、両性が混在する一般的な空間で純粋に成長してきた共学出身者なのだよ(緑間)、である。

 

ちなみに共学出身者がもし「え〜女子校って怖そ〜」発言を異性がいる前で行なった場合、この言葉がマウンティングである確率は一気に跳ね上がる。

 

この一言で、女子校出身を一気にカースト下位に引き摺り下ろし、自分の価値を引き上げることに成功する。

 

 

 

 

ここで、女子校出身者としてひとつだけ言わせてほしいことがある。

 

わたしたちからすれば、共学出身者こそ逞しく計算高いと思うのだ。なぜなら、彼女らは同性だけでなく異性からもそこそこ好かれながらそつなく学校生活を送ってきた猛者だからだ。

 

なによりわたしたちが大学に入って学んだことは、“女は男が絡むと人が変わる”ということだ。

 

そんな、思春期で男女の関係交わりまくりの環境のなか、同性とも異性とも程よい関係を築き上げることに成功している共学出身者の方こそ、わたしたちなんかよりよっぽどすごい。

 

 

 

共学出身者からのマウンティングを受け、なんとも言えない敗北感を感じている同志に伝えたい。わたしたちからすれば「共学校の女子ってなんか怖そ〜」だし、お互いに同じ女なのだから仲良くやろうぜ!という気持ちを持つこと。

 

 

そして他多くの方々には、出身校にとらわれない女の子の本質をみてあげてほしい。

 

 

 

 

※わたしは共学でも女子校でもどっちでもいいと思っています。実際、共学出身のお友達もいます。細かいことにとらわれずみんなが仲の良い世界を目指しましょう。(誰)※

 

 

 

 

 

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yutori.

ドラマ『僕たちがやりました』が含むメッセージについての考察。

お疲れ様です、ゆとりです。

 

 

先ほどドラマ『僕たちがやりました』の最終話を視聴した。

(放送日からのタイムラグをお許しください。)

 

※今回の記事はネタバレを含みます※

 

知らない人のためにあらすじを。

 

凡下高校生徒の2年生・トビオたちはOBで金持ちのパイセンとつるみ、遊んで過ごしてきたが、ある時仲間のマルが、凡下高校の隣にある矢波高校の生徒らに拉致され大怪我を負わされてしまう。矢波高校の生徒に仕返しするためにトビオ達は夜間に矢波高校に忍び込み、小規模な爆弾を仕掛けた。しかし、最後にボタンを押したところ、想定外の規模の爆発が発生して大勢の死傷者が出てしまった。 トビオはパイセンらと外国へ逃亡しようとするが、パイセンは空港で刑事に逮捕されてしまう。 そしてトビオらはバラバラになり、警察や、大怪我を負いつつ生き残った矢波高校をシメていた2年生・市橋から逃げることになる。

 

ドラマ公式サイトはこちら→

www.ktv.jp

 

 

火曜夜9時というゴールデンタイムでの放送だったにも関わらず、リンチ・濡れ場・レイプ未遂のシーンなどがありのままに放送され話題になったので知っている方も多いのではないだろうか。

 

まず、なぜこのドラマを視聴しようかと思ったかというと、間宮祥太朗が出演していたからである。ファンなのだ。ただそれだけ。

そんなわたしも序盤は「なんてくだらないドラマだ」(失礼)と思っていたし、ぶっちゃけ真剣には見ていなかった。⁽もちろん間宮氏のシーンはちゃんとみた。⁾

 

このドラマの赴きが変わりだしたのは第六話から第七話にかけて。六話では爆破事件の真犯人を名乗る男の出頭によって半ば強制的に事件は幕を閉じ、トビオたちは日常を取り戻したかのように見える。しかし、七話で刑事の飯室(三浦翔平)から事件の真犯人はトビオたちであるという真相を告げられる。

 

このあたりから、トビオの中で静かにでも確実に罪の意識、罪悪感が大きくなっていく。

 

ストーリーが終盤に向かう中で、罪悪感を抱えきれなくなったトビオたちは自白を試みる。

 

僕たちがやりました。捕まえてください。」

 

 

 

結論から言うと、トビオたちは逮捕される。

 

最終話の残り15分ほどだろうか。

 

このドラマはここからがすごかった。

 

 

10年後、4人は罪を償いパイセンの呼びかけで再集結を果たし、それぞれがそれぞれの道を歩いていることがお互いに分かる。

ここでのトビオとパイセンの会話が印象的だった。

お笑い芸人になろうと思うと夢を語るパイセンに、人を殺したのに何故夢を語ることができるのか、と問うトビオ。パイセンは答える。

「最後に残ったのが 笑い だった。お前の最後に残ったものはなんや。」

トビオの答えは、「たまに死にたくなる自分」だった。

 

トビオたちは罪を償ったはずなのに、罪から解放されたわけではなかった。

 

 

 

最終回を見ているとき、わたしは一冊の本を思い出した。

中村文則先生の著書『悪と仮面のルール』

(わたしは中村文則先生の大ファンなのだ)

 

この本の一節に、「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問に対して、「人間は、その先も生きていかなければならないから」だと答える部分がある。

 

 

まさに『僕たちがやりました』のトビオはこれだ、と思った。

 

 

ドラマが、このメッセージを含んでいたとするなら、今を時めく俳優陣をそろえ火曜の9時という時間にわざわざ放送する意味も、あらゆる衝撃的なシーンで話題性を欠かなかったことも、より多くの視聴者を獲得するための戦略だったのではないかと思った。

(昨今のドラマは視聴率が悪ければ即打ち切りをされてしまうため話題性はドラマを生き残らせるために欠かせない)

 

 

 

ここに書いたのはあくまで個人的な考察に他ならないので、さらっと目を通していただけるだけで幸いです。

 

ただ制作側の意図がどこまで視聴者に届いているのか、その意図自体も含めてとても気になる...

 

 

 

序盤からのふり幅をみても、なかなか面白い作品だったと思う。

 

 

 

 

yutori.